世界の子ども福祉~実践と未来~
第1回テーマ
「アドボカシーと子どもの権利」
執筆者
大塚 斉
第45回(2019年度)ポーランド・ベルギー研修団員 埼玉県立大学 社会福祉子ども学科 教授
本号のテーマについて
アドボカシーと子どもの権利
2024年に改正児童福祉法が施行され、子どもの意見聴取等措置や子どもの権利擁護に係る環境整備に関する取組みが本格化しています。 今回は、アドボカシーを中心に、海外の子どもの権利擁護に関する制度や児童福祉の現場における具体的な取組みを紹介しながら、日本の現状と課題を見直し、今後のあり方を見据えます。
20年以上前、私が児童養護施設に勤め始めた頃に出会った、小学校1年生の言葉です。考えてみれば、子どもを守るために虐待的環境から分離保護したといっても、子どもから見れば、“自分が決めたこと”ではなく、“大人が決めたこと”なのでしょう。見慣れた景色、慣れた人間関係から急激に切り離された体験は、大きな戸惑いと不安を引き起こしても無理もありません。自分の人生が大人の都合で振り回される理不尽さを、彼は伝えてくれたのだと思います。彼の言葉は、私のその後の職業人生に大きな影響を与えました。子どもが自分の人生に関われるようになること、具体的には、知らされること、選べること、決められることを少しでも増やしたいと考えるようになりました。
彼の言葉は、彼だけの言葉ではありません。児童福祉施設へ入所した子どもたちの声を代表する言葉なのでしょう。香坂(2020)も、児童相談所による支援経過の中で、「自分の人生に自分がいない」と感じていたと当事者の声を伝えています(『世界の児童と母性』88号、p. 47)。
一方、私の思いもまた、私だけの思いではないと思います。これまで多くの支援者が、同じように子どもと出会い、子どもの声を聴こうと実践を積み重ねてきました。先達たちのこれまでの積み重ねが、一歩一歩領域を発展させてきたのは間違いありません。施設内における子ども自治などもその一例でしょう。しかし、児童養護施設の実践として、すっかり定着した施設もあれば、いつの間にか立ち消えになってしまった施設もあります。さまざまな理由があるでしょうが、その背景には、日本の協調性を重んじる文化の弊害があるように思います。大人が考えている方向性を敏感に察する何人かの子どもが、それに合わせるような意見を言い、その流れが支配的になると、子どもにとっても大人にとっても自治は形だけのものになってしまい、次第にトーンダウンしてしまう。何も児童養護施設に限った話ではありません。学校教育の場においても、比較的気が利く子が先生の意図を汲んだ発言をし、先生はその発言を拾って授業を進めることがあります。子どもの意見を聞いているようで聞きたい声だけを聞き、子どもの主体的な参加を標榜しながら、方向性の決まった役割をみんなで演じているような、そんな場面は、そこかしこで見受けられます。真に人の話を聞き、真に人に伝えるとは、実に難しいものです。
ベルギーにヒントはありました。ベルギーは3つの言語共同体(フランス語圏、ドイツ語圏、オランダ語圏)からなる連邦国家で、それぞれが共同体政府を持つというモザイク国家であり、多様性への尊重がこの国を成り立たせているといっても過言ではありません。その中において、小学校でも50か国以上の多様な国籍、人種的ルーツ、文化的背景を持つ子どもたちが共に学び、他者尊重を学びながら育つ様子が見て取れました。とりわけ、喧嘩などのトラブルの際には、メディエーションのような手法で対話による相互理解を経験させているとのことでした。幼い頃から、違う価値観、文化的背景を尊重しつつ、話し合いをする経験を重ねているのです。協調性は、自分の意見を言わずに全体に合わせることではなく、自分の意見を伝えつつ、自分と違う意見を尊重することで図られています。
また多様性への尊重は、他の形でも見て取れました。ADHDの子どもは、写真①のようにバランスボールに座りながら授業を受けていました。身体を動かしているほうが集中力が高まるようです。またイヤーマフが柱にかけてあり(写真②)、聴覚過敏の子どもは、必要な時に自ら使っていました。子どもたちが自分のニーズに合わせて使える選択肢が教室内にたくさん用意されていました(「第45回資生堂児童福祉海外研修報告書―ポーランド・ベルギー」)。そして、担任の先生が「日本からお客さんが来ているから、なぜあなたがそれを使っているのか説明してあげて」と声をかけ、子どもが説明してくれることがありました。日本で合理的配慮を受けている子どもに、担任がそれを説明させるなんてことは考えられないでしょう。いかに子どもが引け目に感じることなく、当然の権利として、自分のニーズにあった選択ができているかを物語っているようでした。
一方、日本に帰国した後、経験したことは対照的でした。小学校時代に修学旅行の大浴場でからかわれたことをきっかけに不登校になった子どもが、中学生になり、再び登校できるようになり、迎えた中学校3年生の修学旅行。本人は修学旅行にも行きたいのですが、大浴場にみんなで入るのだけは嫌だと相談がありました。幸いホテルの部屋にも浴室はついていたので、お部屋のお風呂を使わせてもらえないか学校に何度も相談しましたが、「大浴場に入るか、修学旅行を欠席するかのどちらかにしてください」と言われてしまいました。結局その子どもは、修学旅行に行きませんでした。学校には学校の事情があるのでしょうが、もう少し何とかできたのではないかと思いました。そして、このように個人のニーズより集団に合わせること強く求められるこういう社会で育つのと、個人のそれぞれのニーズが最大限尊重される社会で育つのでは、人権感覚が大きく違うのも無理もないと感じました。社会の中に、ごく自然に自分のニーズにあった選択肢がたくさんあると、子どもは選ぶ経験を重ね、自分のニーズを知っていくのでしょう。自分のニーズを知り、伝え、それが満たされていく経験の先に、意思決定や意見表明があります。
一時保護中の子どもや入所施設の行動制限も印象深かったです。ベルギーにおいて、行動の制限は、基本的に司法の判断がなければできず、携帯電話の所持や喫煙、外出なども認められていました。なるべく権利の制限をしないようにという前提で考えているのだと感じられました。問題が起きないように制限するのではなく、失敗したり問題が起きたりする過程で、自分に必要なことがわかってくるだろうといった感じなのです。
日本に帰国後、少年院に行く機会がありました。さまざまな取組みを説明してもらう中で「ここは出院前の少年に自律的な生活を経験させるお部屋です」との紹介がありました。「どんなことができるようになるのですか?」と質問しますと「電気を自分でつけてもよくなります」と返答がありましたので、かえって少年院の管理的な生活が強く印象に残ってしまいました。一緒に行った同僚と「さすがにびっくりしたね」と笑いながら児童養護施設に戻ると、子どもが「クーラーつけて」と駆け寄ってきました。エアコンの管理を子どもに任せていると、夏場18度に設定して毛布にくるまっている、つけっぱなしで登校して電気代がかさむなどの問題が起きて、数年前に職員管理にしたままになっていたルールです。笑ってはいられなくなってしまいました。足元にも同じ問題は潜んでいたのです。子どもが生活の中で裁量権を持つことは、選べることや決められることが増えることを意味します。
それ以降、児童養護施設の新任研修で「児童養護施設の職員は、養育の専門家であるとともに、人権擁護の専門家であって欲しい」と伝えるようになりました。例えば、子どもが施設の決めた外出範囲を超えて遊びに行きたいと相談があったとき、担当ケアワーカーと子どもが施設長にお願いに来る場面はよく目にします。反対に施設の決めた外出範囲を超えた所でのイベントに子どもが行きたいといったとき、それが一般家庭では通常許されているようなものだった場合、「外出範囲の制限をしたままでよいですか?」と問えるようになってほしいものです。権利の制限をするときには、親権代行者である施設長に必ず確認できる養育者でありたいです。
しかし、慣習になってしまうと、自らの目で気づくのは難しくなってしまう面がどうしてもあります。オンブズマン制度は、慣習的なものを、子どもの声で問い直す機会になるのではないでしょうか。そのとき、私たち大人が、「クレーム処理」としてではなく、真に聞く耳を持っているかが問われているのです。
・公益財団法人資生堂社会福祉事業財団(2020)「第45回(2019年度)資生堂児童福祉海外研修報告書―ポーランド・ベルギーー」
・香坂ちひろ(2020)「社会的養護に当事者参画を―子どもたちが『自分の人生に自分がいない』と感じなくて済むように―」『世界の児童と母性』第88号
大塚 斉
2003年 社会福祉法人武蔵野会武蔵野児童学園 心理療法担当職員 2010年 東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得 現在、埼玉県立大学社会福祉子ども学科 教授
子どもたちが希望をもって生きていける社会の実現を目指し、
資生堂子ども財団とともに子どもを支える仲間を探しています。